Special Interview
京仏師 林清嗣(はやし・きよつぐ)

仏師の鏨の先から、仏の形が生まれてくる

仏師の鏨の先から、仏の形が生まれてくる

いやいや、生むなんてとんでもない
木の中に降りてきはるのや
私にできるのは、ひたすら祈ることだけ

「仏さん、どうか降りてきてください」と
いくら祈ってもどうしても鏨が下りないときは
ひたすら仕事場を掃除するのだと、
精悍な風貌の仏師は、恥ずかしそうに笑った

 

 


 

22歳からのスタート

22歳からのスタート

 私が仏師を志したのは大学を出てからなので、仏師としては変り種だと思います。ふつうは中学を出てすぐに修業に入り、25,6歳で食べられるようになるというのが一般的ですから。父が松久朋琳先生の作品に、漆を塗る仕事をしていた関係で、なんとか内弟子にしていただくことができました。

 内弟子という徒弟制度もいまでは珍しくなりました。住み込みで、師匠の身の回りのお世話をしながら、仕事を教えてもらうんです。給料はなくお小遣い程度。ご飯を食べさせてもらえて仕事を覚えられるんだから当然というのが、当時の普通の考え方でした。

 弟子の中で一番下っ端の私が、一番年上です。言うに言えないつらいこともありましたが、おかげでずいぶん鍛えられました。また、師匠がよく見ていてくれて、落ち込んでいると時々縄暖簾に誘ってくれるんですね。それにも助けられました。いまでも私は師匠に惚れてここまで来られたと思っています。

 

 


 

仏像を掘る

仏像を掘るということ

 仏像を彫るというのは、西洋の彫刻とはかなり違います。西洋の彫刻はいかに自分の個性を出すかが勝負。でも仏師は個性を出してはいけないのです。

 私が尊敬する仏師に、鎌倉時代の仏師で運慶という人がいます。仏像彫刻の革命児と言われる運慶は、貴族社会から武家社会へと、大きく変わっていく時代の中で、それまでの仏像の概念を根底からくつがえす、個性的な仏像をどんどんつくりました。

 しかし、その個性は決して個を主張するものではありませんでした。その時代を生きる人びとが、心の底からすがりたくなるような仏、 苦しみから救われるような仏とはどのような仏なのかを、運慶はひたすら模索し、その中からあの、精気に満ちた、躍動感あふれる仏たちが生まれたのです。私はそこに、日本の仏師の真骨頂があると思っています。

 

 


 

仏像はかけがえのない分身

仏像はかけがえのない分身

 私の師匠はずっと、「一人一仏」ということを提唱してきました。「一人一仏」というのは、早い話が「自分で仏さんを彫ってみませんか」ということです。

 私も師匠に倣(なら)い、みなさんと仏像を彫っています。面白いことに、技術は覚束(おぼつか)なくても、一生懸命彫っているうちに、仏像に魂が入るんですね。そうなれば、その仏像はその人のかけがえのない分身みたいなものです。

 そうやって、自分の魂をこめた大切なものを一つ持っていると、他人の大切なものも不思議とわかるようになります。自然に思いやりの心が持てるんです。そうするとむやみに他人を否定することもなくなって、「お互いさま」という気持ちが生まれてくる。
 出来すぎた話だと思われますか?そう言う前に、一度だまされたと思って、仏様を彫ってみませんか。忘れかけていた大切なものを、ふと思い出すかもしれません。

 仏師になって30年、私は今ほど仏像が必要とされる時代はないと思っています。人心はかつてないほどに荒廃し、今、歯止めをかけなければ、私たちは恐ろしい所へ行ってしまうのではないかという気がしています。

 昔、仏師は命がけで仏像を彫り、その仏像を人びともまた、命がけで拝みました。人びとにそんな思いを抱かせる“平成の仏”が彫れたら・・。これからの私の夢であり、課題です。

 

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